ビターチョコレートみたいな速さで|黄黒(WEB再録)

 幼い頃の刷り込みは、どんなものより厄介だ。
 5月の連休も終わって、ブレザーが暑苦しくなってきた。部活が終わってチームメイトと別れた黒子はブレザーを片手に持って、そのまま家へと向かう。火神の家も学校から近いのだが、生憎反対方向だ。黒子はいつもこの通り道をひとりで帰る。
 もうすっかりこの生活にも慣れてしまったな、とたまに買い物に来る大型スーパーを通りながら、黒子は辺りを見回した。1ヶ月前までは全く知らなかった道、人の流れ、街の雰囲気。いつのまにか、すっかりそのなかに溶け込んでしまっていた。
 中学3年の夏、気まぐれで見学に行ってみた誠凛高校のバスケ部の活動を見て、どうしてもここでバスケがやりたい、と願ったのが全ての始まりだった。限りなく神奈川寄りの黒子の家は誠凛から片道2時間近くかかり、バスケをしながらの通学は厳しいと親の反対されたのだがそれでもどうしても譲ることが出来なかった。度重なる家族会議の結果、判ったのは家からの通学は非常に困難だということだった。他のところでもいいだろう、と親からは何度も言われたのに、黒子にはどうしてもそうは思えなくて、何度も首を振った。1人暮らしをさせる余裕なんてないとも言われ、話し合いは平行線のまま、途方に暮れていた時に、久しぶりに家に来ていた彼にそれとなく相談してみたのが、もうひとつの始まりだった。
 じゃあさ、俺の家に来る?
 あの台詞は、今日部活終わったらコンビニ寄っていかないか、とでも言うような軽さだったと思う。
 どうやって親と交渉したのかは判らないが知らないうちに承諾を貰っていて、そういう方向でどんどん話が進んでいって、受験の書類も提出してもう後に戻れなくなった。受験の少し前になって、受かったら、彼と2人暮らしすることになるんだな、と改めて想像してみれば、少しの不安が過った。十年前に、彼が海常高校に通うために家に居候していた時とは、もう色々なものが変わってしまったから。高校生だった彼はモデルの道に進んで、小学生だった黒子は高校生になった。変わらず彼は黒子に接してくるが、黒子はもう違う。髪を撫でられたって昔みたいに顔を綻ばせたりなんて出来ない。気軽に触れたりなんで出来ない。だってもうあの頃とは、そこにある熱の重さが、変わってしまったから。
 自覚なんてしなければよかった。そんな不安を振り払うように首を振って、受験勉強に励み、見事黒子は誠凛高校に合格した。それからは本当にあっという間だった。持っていくものの準備―――とは言っても黒子が持っていくものは愛読書とバスケットボールぐらいだったけれど、住むことになる家を見に行って、4月に入ってすぐ引っ越した。
「いらっしゃい、黒子っち」
 待ってたよ。顔をぐしゃりと綻ばせて、黄瀬は黒子を歓迎した。そういう、時折ひどく子どもっぽくなる表情は、変わらないな、と黒子は嬉しくなったが、黄瀬に言うことはなかった。
 モデルと時折俳優としても活動している黄瀬はほぼ毎日仕事に出ている。帰宅の時間もまちまちで、黒子よりずっと早く帰ってきて夕飯を作っている日もあれば、もう黒子が寝ようとした時間になってやっと帰ってくる時もしばしばあった。流石に家主より先に寝てしまうのはどうなのだろうかと黒子はいつも黄瀬を待ち続けていたのだが、一回うっかりそのままソファで眠りに落ちてしまったことからばれてしまって、明日からは先に寝てていいよ、と言葉こそ柔らかくともぴしゃりと言い包められてしまった。
 今日は出るのが遅いからご飯作っておくね、と黄瀬に言われていた。恐らく黒子よりも帰りが遅くなるだろう。黒子は料理は苦手だし、やっている時間の余裕もない日々を送っているので、食事は黄瀬の独壇場となっていた。コンビニ弁当は栄養が偏るからと、自分だって多忙なくせをして黄瀬はなるだけ朝夕は簡単なものでも料理をしたがった。昼も入学当初は黄瀬が率先して作っていたが、元々小食な黒子が弁当作るほど量が必要ない、食堂ですませるから大丈夫だとなんとか言い聞かせた。
 そんな日々が始まって、もう1ヶ月経った。予習の夜食にとアイスをコンビニで買っていく。一度レジに並んだのはいいが、やっぱり、と黒子はもうひとつアイスをとって再び並びなおした。黄瀬の分だった。このコンビニは黄瀬に教えて貰った。少し回り道をすることになるが、一番近いコンビニだ、と。
 帰り道、黄瀬と歩いたこの桜並木は、もうすっかり緑葉へと変わってしまっていた。こんな風に、変わってしまえたらよかった。一緒に住んでみたら、ただの思い出の美化だったと落胆出来るのかも知れない、それはそれでいいと思っていたのに。
 家に着いてドアを開けると、リビングの方からテレビの音声らしきざわつきと、夕飯のにおいがふわりと漂ってきていた。ドアの音に気付いたのかリビングからひょっこりと黄瀬が顔を出す。
「お帰り、黒子っち」
 この憧憬にもよく似た厄介な感情は、十年のあいだずっと消えることなく、とろ火のように黒子のなかでくすぶり続けている。
 
 小学校にあがって暫くしてから、ようやっと自分が他人より影が薄いことを自覚した。いつも迷子になるし、点呼をとっては返事をすればそこにいたのかと驚かれるし。ただ不便だなあとは思ったけれど、かくれんぼではいつも有利だし、とあまり深刻に考えることがなかった。
 もう細かいことは忘れてしまったけれど、誰かの何かが無くなった、盗まれたとかで学級会議になった。昼休みにみんなは何をしてたの、ああこれは皆を疑っているわけじゃないの、ただ確認したいだけだから。先生の言葉に、出席番号順にひとりひとりが、誰と一緒にいて、何をしていたと答えていった。
 そうしたら、いつの間にか、黒子だけアリバイとやらがない、ということになってしまっていた。もしかしておまえがやったんじゃねえの、と冷ややかな声が一声あがれば、一気に冷たい視線が黒子へと集中した。いつも気づかれず、人の視線に慣れていない黒子は、それがひどく怖かった。と言うよりそもそも、おまえがやったも何も、きみたちと一緒にぼくはおにごっこをしていたじゃあないか。たった、それだけのことが言えなかった。初めて、認識されていないことの恐ろしさを思い知った。
 学級会議は結局そのあやふやなまま終わり、クラスメイトから疑惑の眼差しを向けられながら、帰りのホームルームが終わったと同時に全力で走って家に帰った。まるで本当に犯人みたいだけれど、あんなところにあれ以上いたら、どうにかなってしまいそうだった。早くそこからいなくなってしまいたかった。
 息を切らして帰ると、家にいるのは黄瀬だけだった。試験中で午後過ぎには帰っていたらしい。その黄瀬に任せて、母と祖母は夕飯の買い出しに行っているのだとか。黄瀬は英単語帳と睨めっこしていたが、閉じて黒子の方を見ると、その蜂蜜色のひとみをぎょっと大きくした。
「…どしたの?」
 困惑しながらも笑顔で、やさしくそう問いかけられ、一気に緊張の糸が切れた。眸から大粒の涙があふれては零れていく。短い色素の薄い髪を一本一本を愛でるように撫でなから黄瀬は黒子を宥めるのだった。大丈夫。大丈夫だから。俺は何があったって黒子っちの味方だから。
 綺麗な顔立ちで、モデルをしていて、スポーツも万能な黄瀬は、黒子にとってまさしくヒーローだった。魔法使いのようにさえ見えた。素直にそう言ってみれば嬉しいなあ、と言ってじゃあ、俺、黒子っちのヒーローとして恥ずかしくないように、頑張るね。約束、と黄瀬ははにかんでいた。彼が黒子を可愛がってくれることが何よりうれしくて、誇りだった。盲信していたと言ってもいい。
 成長するにつれて、それが薄まってしまえばよかった。いつだったっけ。彼の試合をひとり、録画したのを観ながら。家にいる時とは全く違う、獰猛な姿を見せる黄瀬を見た時。あれが欲しいとはっきりと欲情した。
 憧憬を勘違いしているだけと言い聞かせてきたのに、それは鳴りを潜めるどころかどんどん膨らんでいった。高校も卒業して居候を終えた黄瀬が時折家に遊びに来るたび、どんな顔をした会ったらいいか判らなくなった。だから距離を置いた。飽きられれば、諦めもつくと思ったのだ。中学に入って自分だけのバスケを確立するために表情も胸の裡に顰めるようになった。一緒に暮らしていた小学生の頃に比べたら、無表情で、生意気で、黄瀬がかわいいと言っていた面影なんてどこにもない、ただの影が薄いだけの中学生男子となった。
 でも黄瀬は何も変わらなかった。避けていることもあって、前ほどスキンシップはなくなったけれど、試合があれば仕事の合間に見にきてくれたし、その後は必ずお疲れ様と書いてあるメールが届いた。どこがよかったと褒めたり、ここはこうした方がよかったかもとアドバイスされたり。なんでこういうことをするのだろう? 昔と違って、もう黄瀬が癒しに求めていた「かわいい」は返せないのに。素直にはなれるはずもなく素っ気なく短いお礼の文章を打って、黒子は返信のボタンを押した。
 
 高校生になって、黄瀬と一緒に暮らすということに、勿論最初は気が進まなかったし、やんわりと断り続けていた。それでも最終的に決めてしまったのは、どうしても誠凛高校でバスケをしたい気持ちの方が勝ってしまったからだ。見学で見たあのチームワークとカントクの指示の的確さに、強く胸を打たれたのだ。それは、黄瀬のバスケを初めて見た時の気持ちにも似ていた。
 それに、結局は黄瀬に絆されてしまったというのもあると思う。頑固だと自負している黒子が折れざるを得ないような、それぐらい、黄瀬は毎日のように電話やメールで一緒に住もうよと言って黒子を諭した。黄瀬が以前居候していた恩返しという意味もあったのだろうけれど、どう見ても積極的すぎて、断る理由も思いつかず、願書を提出する数日前になって漸く、話が纏ったのだった。
 黄瀬はもっと他人を家に連れ込むものだと思っていたから、同居が始まってから1ヶ月はびくびくしながら毎回家の鍵を回していたのだけれど、誰かが来たことは一度もない。外での仕事が多忙なのもあると思うが、黄瀬は恐らく、黒子がいることで他人を家にあげることをなるだけ避けているのだろう。そういったことを黄瀬は一言も口にしないけれど、雰囲気で判る。才能に溢れ人望もあり、人気があがっている今の時期に、黄瀬はどんなに遅くなっても必ず家に帰ってくるから。
 
 今日は天気が曇っちゃったから撮影早めの切り上げになっちゃったんだよ。そう言った黄瀬は、夕飯の支度の最中だったらしい。黒子は部屋着に着替えて、先に風呂に入ってくると黄瀬に告げて、脱衣所へと向かった。
 部活中調子が悪く、今日は何度もカントクのリコに注意された。自分でも感覚が掴めない一日だった。ずっと緊張していた日々を過ごしていたからかも知れない。特に先週はゴールデンウィークで、部活以外は殆ど黄瀬と一緒にいた。2人で横浜まで遊びに行ったりもした。サングラスと帽子で簡単な変装をした黄瀬はゲームでもやっているように楽しそうに、ばれたら駆け落ちみたいに手を繋いで逃げよう、と言うので、こちらの気も知らずにと殴りたくなった。意識している相手と生活を共にするのは予想以上に精神的な疲れを生んだ。
 湯船に浸かっても、全然いつものように疲れがとれていく感じがしない。ぴちゃん、ぴちゃん。どこからか水の音が聞こえる。
 誠凛に入ったことは大正解だったと胸を張って言えるほどだ。充実した日々が送れている。黄瀬に感謝もしている。けれど、黄瀬との同居がこのままであと3年続くと考えたら、もう溜息しか出なかった。
 風呂場から上がって脱衣所で服を着ていると、脱衣所へのノックの音が響いた。「黒子っち、起きてるー?」部活がハードで風呂場で眠りに落ちることも少なくないからか、黄瀬が様子を見に来たらしい。
「大丈夫です。あがったので、すぐ行きます」
「よかった。丁度出来上がったところっスから。待ってるね」
 親切丁寧に一緒のご飯を食べたいらしい黄瀬は黒子を待っていてくれるらしい。気持ち急いで服を着て髪を乾かし、リビングへと向かう。2人向かい合って、頂きます、と手を合わせる。学校の話をしながら、黄瀬の料理を口に運んでいく。くすぐったくて安楽とした時間は、水を掬うみたいなはかなさで、あっという間に過ぎていくのだ。
 
 
 
 
 明らかな異変は午前中からだった。体育のバレーの授業で足元に眩暈がして倒れかけて、すぐに保健室に連れていかれた。熱を測ったあと直ぐに、早退を促され、温度計の結果を見せられれば反論も出来なかった。昼休みになったら、最寄駅まで担任が送ってくれるということになり、黒子は少しのあいだだけ眠りについた。
 毎日会っているのに、黄瀬は夢にしばしば出てくる。黒子がそれが嫌だった。黄瀬への恋慕が、確かに存在することを、如実に突きかけられているような気がするからだ。
 黒子の実家の縁側で黄瀬と話している。この夢を、もう何度も見ている。恐らく過去に実際にあった出来事なのだろう。けれどどうしてか、黒子ははっきりと思い出すことが出来ないままでいた。だって、驚くことに、黄瀬が泣いているのだ。泣きながらも必死にこちらへと笑いかけてくる。泣かないでと言いたくて伸ばした手は身長の差で届かない。幼い頃の体だから。今だったら届くことが出来たのに。そして黄瀬が以前そうしてくれたように、黄瀬を抱きしめて、撫でて、大丈夫だと慰めることが出来たのに。どんなに背伸びしても黄瀬の頭まで手は届かないままで、そうして夢は終わりを告げた。4限目の終わりを告げるチャイムが鳴り響き、黒子は目覚めた。
「黒子くん、起きた?」
 教師の女性が、机のある方から声を掛けてくる。起きました、と黒子はゆっくり上体を起こしながら答えた。
「鞄はお友達が持ってきてくれたわ。あと、保護者の方が車で迎えに来たみたいだから、帰りはそっちで」
「迎え、ですか」
 黒子の両親は共働きだ。祖母は免許を持っていない。…もしかして、と考えが至るまでは一瞬だった。
 校門前に教師を来れば見慣れた車が一台あった。こちらに気づいたのか窓を開けて手を振ってくる。教師は誰が来るか知らなかったのか目を丸くしていた。
「先生、ここまでで大丈夫です。有難うございました」
 軽くお辞儀をして、早々と助手席に乗った。教師は目の前を黒子が乗った車が過ぎていくまで、茫然を立ち尽くしていた。ああいった反応が、普通なのだろうな。日本は特にそういう扱いにされがちだというけれど。芸能人である黄瀬は、そうじゃない一般の目から見れば特別な存在だ。
「お疲れ様。今日はゆっくり休もっか。俺も休みだし」
「…黄瀬くん、オフだったんですか。一日中?」
「そう。久しぶりの完全オフ。さて、とりあえず病院行こっか」
 黒子が寝ていれば治ると言ったけれど、黄瀬が駄目だと言って聞かなかったので、マンション近くの病院で診察を受けた。予想通り熱だと言われて薬を貰い、家に帰れば午後2時を過ぎていた。
「食欲はある? 一応お粥作っておいたんスけど」
「…ちょっとだけ」
「ん、わかった。寝間着に着替えておいで」
「判りました」
 部屋に入って、寝間着に着替える。時折ぐらりと視界が揺れる。かなり高い熱のようで、久しぶりに感覚に黒子は思考がついていかない。これから何をすればよかったのだろう。…そうだ、リビングに行って、そこで黄瀬が待っている。先程より熱があがっていることを確認しつつ、おぼつかない足取りで黒子はリビングへと向かった。
 廊下からリビングへ向かう途中で、黄瀬の話声が聞こえた。けれど、リビングにいる割には遠い。もしかするとベランダで話しているのだろうか。
 申し訳なさそうな謝罪の言葉が耳を掠めた。はっきりとした内容までは聞き取れないけれど、黄瀬の声のトーンとか、時折聞こえる単語の羅列で、状況はもう大体判ってしまった。一日中オフだと言っていたのはどこの誰だ。こんなことされたって、嬉しくともなんともない。黄瀬の枷になりたいわけじゃない。
 怒りが込み上げてきて、溢れてしまいそうだ。そう思ったら、出てきたのは涙のほうだった。ぼろりぼろりと流れ始めたら、もう黄瀬の前には出られないと思った。部屋に戻って、布団を被っていたら、リビングの声は黄瀬の計算違いは自室の方がよく聞こえた。眩暈なのか微睡みなのかよくわからない、はっきりとしない意識のなかで、黄瀬の声は聞こえても、うまく認識出来ずに流れていく。……大事な子なんです。預かってる間は、ちゃんと保護者としてやれることやりたいんです。最後に聞き取れたのは、そんな声だった。
 
 底沼の泥のように深い眠りから目が覚めた時には、外はもう真っ暗だった。何時か確認するにも、真っ暗で目は不慣れだし、携帯は入り口付近に置いた鞄のなかだ。大分楽になったが、まだ本調子ではないようだった。黄瀬はあれからどうしただろうか。眠っていた黒子を見て、気づいただろうか。立ち上がって黄瀬のところに行く気力はない。食欲もなかった。
 小学生から高校生になって、それなりに大人になったつもりでいた。黄瀬と近くなれたと。けれど黄瀬だって学生から社会人になり、更に遠いところへと行ってしまっていた。あの謝罪する声色を思い出して痛感した。あんな黄瀬の声は、知らない。十年前、学生では出せないような、社会に生きる大人の声だった。
 光が、黒子のベッドに一筋入る。音もなくドアを、ほんの少しだけ開かれたらしい。廊下からの明かりが漏れてきているのだ。黄瀬が様子を見に来たのだろう。
 今、何時ですか。出た声は掠れていた。…1時だよ、夜の。判ってます、そんなこと。
「よかった。快復してるみたいっスね。…入っても大丈夫?」
「どうぞ」
 黄瀬がゆっくりと部屋に入ってくる。真っ暗な部屋のなかでゆっくりと近づいてきて、ベッドの前で座って、ぴと、と額に触れてくる。身に覚えのない冷却シートが貼られていた。
「いつ入ったんですか? 勝手に入るなって言ってたのに、」
「ごめん、だってノックしても全然返事ないから心配になって。…寝てるだけみたいだから、これぐらいはと思って。今回だけだから、許して」
「…黄瀬くんは、許してって言えば、いつも許されると思ってるでしょう」
「ごめんなさいっス。…でも別に、男同士だからそんな都合悪いことないじゃん? エロ本とかあって当たり前だし」
「男同士とか、そういうの、関係なしに、だめです」
 男同士と言われ、思わず反論するように強くなった語気に、しまった、と黄瀬の顔色を窺ってしまう。
「判ったよ。…今度からもう入らないから。そんなに嫌だったとは思わなくて、ごめんね」
 そうじゃない。そう言いたかった言葉は喉まで来て言えなかった。じゃあどうして? と聞かれたら返答出来ない。見られて不味いものなんて、特に何もなかった。ただ、黄瀬が居候していた、子どもだった頃とは違うのだと、主張したかっただけだ。黄瀬に何もかも曝け出せるような幼稚さはもう持ち合わせていない、成長しているのだと思わせたかっただけ。
「…熱、下がったと思います。明日は、きちんと仕事に行って下さい」
「えっ。………気づいてたの?」
「ベランダでの電話、この部屋よく聞こえちゃいますから、今度から気を付けて下さい」
「マジで…」
「…きみは、馬鹿です。事務所に推して貰ってるって、仕事増えてるって言ってたじゃないですか。こんな大事な時に、…馬鹿です。とにかく馬鹿です」
「すんません…。でも、黒子っち心配しないで。今日のは親しいスタッフさんばっかりだし、俺もドタキャンくらったことあるから。お互い様ってことになったから、大丈夫」
「どうしてですか?」
「…何が?」
「どうして、きみはそこまで僕に尽くしてくれるんですか」
 一番訊きたくて、訊けなかった疑問は、熱のせいか呆気なく口から出てしまっていた。
「だって俺、黒子っちのヒーローだから。ピンチには駆けつけないとダメでしょ」
「………いつの話してるんですか、それ…」
「いつだったかなぁ。てか黒子っち、覚えててくれたんスね。てっきりもう忘れてると思ってた」
「きみは何度もヒーローヒーロー言ってたじゃないですか。聞き飽きました」
「あはは。…じゃあさー、あの日のことは覚えてる? 青峰っちに負けた時の。黒子っち、今日みたいに風邪引いてたよ」
「………縁側の?」
「そうそうそう、覚えてる?」
「縁側で喋ったことまでは覚えてるんですが、内容が」
「覚えてないんだー…。そっか。でもさ、」
「はい」
「俺、黒子っちのヒーローっていう肩書があったから、ここまで頑張れたと思うんスよね。バスケも、仕事も。ちょっとでも手を抜いたら、黒子っちにはすぐにバレるだろうし。失望されたくなかった。この十年間、ずっとそれで、」
「それ、いいです」
「え?」
「しなくていいです。もう辞めて下さい、僕のヒーローなんて」
「え…」
 黄瀬の眸が明らかに翳りを帯びたのが、寝返りを打って壁側を正面にする途中で、見えた。けれどもう、それ以上、何か言えることもなかった。黄瀬がそうしてヒーローを続けようとする限り、黒子は意識して貰えない。漸く判った。黄瀬は黒子との関係を、十年前のあの約束に置いてきている。そんなんじゃ、いつまで経っても、何も、変わらない。黄瀬には近づけない。
 …だったら、そんな約束、もう、要らない。
 
 
 
 
 今年の梅雨は水不足が心配されるほどに短く、5月が終われば夏の始まりはすぐだった。朝方に聞こえる蝉の鳴き声は日に日に増えていき、夏の訪れを知らせていた。
 目覚ましの鳴るずっと前の時間、カーテンから漏れる朝陽で黒子は目を覚ました。時刻は5時前なのに、外はもう大分明るくなっていた。二度寝をする気分にもなれず、とりあえず顔を洗って水でも飲もうと洗面台へ向かう途中で、玄関に人影を見つけた。
 黄瀬は座ってスニーカーの靴ひもを結んでいるところだった。
「おはようございます、黄瀬くん」
「うわっ! …あ、黒子っちおはよう。早いね?」
「外が明るくて目が覚めました。黄瀬くんこそ、どうしたんですか」
「今日は完全オフだから。久しぶりに走ろうと思って。涼しいうちにね」
「…じゃあ、僕も行ってもいいですか?」
「えっ。いいけど、部活は?」
「黄瀬くん。今日、日曜ですよ。昨日2連続で練習試合をやったので、今日はオフです。…と、昨日夕飯の時言ったじゃないですか」
「そ、そうだったっけ」
「準備してきますので、待ってて下さい」
 とりあえず当初の目的だった洗面台へ向かい顔を洗う。寝癖は相変わらずひどかったか、走るのだからあまり関係ないと気にしないことにした。部屋に戻り、部活で使っているTシャツと半ズボンに着替え、スニーカーソックスを履いてから玄関へ向かうと、黄瀬がシューズボックスから黒子のランニングシューズを取り出してくれていた。家を出て扉を閉めようとすると「あ、ちょっと待って、」と黄瀬がシューズボックスの上にある車のキーを手にとる。
「えっと、…走らないんですか?」
「いや、走るよ? ただね、俺この辺はあんまり走らないんだよね。近所に騒がれるの嫌だから」
「じゃあどこで走るんですか」
「いいから、着いてきて」
 車に乗せられて知らない景色を眺める。黄瀬は運転がすきらしく、いつも車に乗ると上機嫌になる。最近元気がなかったように見えたのはやっぱり気のせいだったのだろうか。ピンと張りつめた緊張感めいたオーラがなくなって、少し物腰が柔らかくなった。
「…最近の黄瀬くん」
「うん」
「何かありましたか?」
「なにその質問。なにって、……それをさ、黒子っちが言う?」
「だって、まるで仕事一筋で生きてきた中年男性の、定年退職後の姿みたいじゃないですか」
「…うわああ………。ねえ、それ本人に向かって言っちゃう?」
「はい。事実なので」
「………だよね…。調子はよくないかもね。実際現場でも注意されること、増えたし。たるんでるっていうか、…なんなんだろう。いつも糸を真っ直ぐしておかなくてよくなった、って感じかな? 逆に飾らなくなった、とも評価されるけど」
「はい。僕は格好つけてなくて、いいと思います」
「なにそれ。今まで格好つけてたってこと?」
「違うんですか?」
「つけてたけど! でもそれは黒子っちの前だったからで、」
「はい?」
「………あー、いいよ、もう。だって俺もう黒子っちのヒーローじゃないんだから、恰好よくなくてもいいでしょ?」
「はい。…いいです、それで」
 黄瀬の運転している先に、海が見えてくる。いつのまに東京から神奈川まで来ていたのだろうか。懐かしむように黄瀬は双眸をゆるく細めている。海常付近は、黒子も何度が来たことがある。黄瀬の試合を見に行ったこともあるが、本当は高校を選ぶときに、書類も貰って、見学がてら文化祭に来たことだってあった。黄瀬の育った学校だから、やはり気になるところはあった。結局、誠凛を選んだが、海常は変わらずインターハイ常連の強豪校で、黄瀬が来ていた頃とは少しデザインの違ったユニフォームで、彼らも今年の夏、きっと勝ち進んでくるだろう。
 海沿いの公園の大きな駐車場に停まり、それからそのままランニングを開始した。港や観覧車が見えるこの景色のなか、海沿いに広々とした歩行路があるせいか同じようにランニングに来ているひとは少なくなかった。変装していなかったので騒がれるのではと思っていたのだが、皆足早で、周りのものに興味はない様子だった。
 誠凛のハードな練習をこなしているから自信はあったが、黄瀬のペースは黒子の予想よりも遙かに早く、早々に息切れが止まらなくなった。
「ちょっと…黄瀬くん速いです」
「えー普通でしょ普通」
「もう1時間近くこのペースでって、絶対むっちゃ速いです」
「結構まだ走ってるからね。オフじゃなくても、夕方からの日とか。ここで走ると気が引き締まるんスよ。高校の頃思い出したりしてさ。怖い先輩のこととか」
「そう、なん、です、か。確かに、校舎の周りぐるぐる周るよりは、いい、か、も」
「ほらー頑張ってー。あとちょっとだから。もうちょっとでベンチがあるから、そこで待ってるね」
「えっ」
 ぐん、と一気に黄瀬のペースが速くなる。気付けばもう追いつくのは無理なぐらい離されていてた。元から黒子に会わせてペースを落としていた、なんて判ってももう遅い。黄瀬の姿はどんどん小さくなっていく。もうちょっとだなんて黄瀬は言ったが、ベンチなんて視線の先目を凝らしてもまだ全然見えてはこない。まだゴールが見えないことより、置いて行かれてしまったことが、少しだけ寂しかった。決して追いつかない年齢の距離を、はっきりと見せつけられたようで、あるだけの体力を出しきって黒子はペースをあげた。それでも黄瀬の方がペースは速いと判っていても、ここでやらないと、掴めるものさえも掴めなくなってしまいそうな不安があった。
 黄瀬はあらかじめ宣言していた通り、一番初めに見えたベンチに座り、黒子を待っていた。手には2つの缶ジュースがある。お礼を言って受け取り、口に運んだ。汗だくで渇いていた喉を、冷たいスポーツドリンクが潤していく。髪からはぽたぽたと汗が落ちていた。陽はもう大分高くなってきている。
 公園の走りやすい道に限定して、3往復していたところだった。海常に入ってから暫く先輩と折り合いが合わなかった時に、よく走らされたコースなのだと、黄瀬はむず痒そうに笑った。もう、往復の、4分の3は終わったところだった。もう少ししたら、また走ろうか。黙って頷いた。潮の匂いと、ちょっと涼しい風。いいでしょ、ここ。そう黄瀬が問いかけてくるのにも、黙って頷いた。
「そういえばさ、黒子っちもう高校入って3ヶ月じゃないスか。すきな子とか、出来た?」
 何気なく黄瀬が聞いてくるのに、どくんと心臓が大きく跳ねた。どくん、どくん。黒子はすぐに反応出来なかった。返答しない黒子を黄瀬はどう思ったのかは判らない。ただ、立ち上がって手を後ろにやってストレッチをしながら「まあ、焦らなくても大丈夫っスよ。黒子っち、かっこいいから、きっと、そのうち素敵な子と巡り合えるよ。そしたら、キスして、いやらしいことして、」
「黄瀬くんとがいいです」
「………え? えっと、何が」
「僕は、黄瀬くんといやらしいことがしたいです」
「……なんで、」
「…黄瀬くんが鈍いのか僕が隠すのがうまいのかどっちかは知りませんが。ずっと、思ってきたのに、君はそうやって知らないままで、…ずるいです。だから言っちゃいます。ごめんなさい、黄瀬くん。…すきです」
 黄瀬の切れ長の眸が、これまでかというぐらい、大きく開いた。彷徨う視線から、動揺は明らかだった。沈黙が流れ、それを邪魔するように、汽笛の音が大きく鳴った。音は長く静寂のなかを支配し続け、やがて消えて行った。それが合図とでも言うように、黄瀬が重たい口をゆっくりと開く。
「………黒子っち、」
「判ってます。意識してる相手に、彼女がどうだとか、呑気な顔で聞いてくるはずありません。…僕はただ、知って貰いたかっただけなんです。黄瀬くんは優しいから、僕の気持ちを知っても、気持ち悪いとかそんなこと考えない。きっと真摯に考えてくれる。…僕のせいで困ってくれる、」
「…俺は、」
「黄瀬くん、気づいてますか。今、とても困った顔してます。僕のせいですよね。……………ごめんなさい、嬉しいです」
 ごめんなさい。黒子はもう一度、謝罪の言葉を口にした。それは一体誰に、何に対しての謝罪だったのだろうか。黄瀬に、黒子に、今までの2人の思い出に、今の2人に、そしてこれからも同居生活が続く2人にか、果たして黒子には判らなかった。ただ謝らないと、ということだけが黒子の脳内を埋め尽くしていた。
 黄瀬くん、すきになってしまって、ほんとうにごめんなさい。
 
 
 
 
 元々今日は休日ではあったが、テスト勉強を控えているので、火神達と集まって勉強をする予定だった。当初は広い黒子の家も候補にあがっていたのだが、こんなことになってしまっては呼べるはずもない。やはり場所は火神くんの家でお願いします、とラインでグループ会話を送って、枕の上にスマートフォンを投げた。
 帰りの車の中でもマンションに帰ってきて、朝食を一緒にしたけれど、その間一切黄瀬とは会話をしていない。というより、思い切り黒子自身が避けた。言ってしまったことに後悔はしていない。けれど今までのことからして、意識されていないことなんて、返事なんて初めから判っていたから、返事なんて聞くまでもなかった。
 黄瀬と、そういうことがしたい、という気持ちは勿論消えてはいないけれど、知っておいて欲しかった、という気持ちが、溢れてもうだめだった。それぐらい、黒子が黄瀬に、恋をしているのだということを、知って欲しかった。だからこれでよかった。…きっと、これでよかったんだ。
 行ってきます、と出かける時玄関でリビングにむけて声を掛けたが、いつものいってらっしゃい、という軽快な声は返っては来なかった。火神のマンションへ降旗達と行って、一緒に試験勉強をした。勿論捗るはずもない。それでも、いつも一緒にいる仲間たちと時間を過ごすことで、いつも通りの平静さを取り戻せたようだった。黄瀬のことを火神達には話していないから、彼らは何も知らないが、けれどだからこそ有難かった。
 家に帰って、ただいま、とリビングまで聞こえるぐらいの声量で言ってみたが、返事はない。車の鍵も靴もあるから、黄瀬は自宅にいるはずだ。とりあえずリビングへ向かうと、お帰り、とテレビの前のソファに座っていた黄瀬が待っていた。いつもより、低い声色だった。
「黒子っち、こっち来て」
「はい」
 ソファの方へを促されるのに、黒子は正直に従った。黄瀬の隣に座る。高価なアイボリーのソファが、男性2人分の体重で一瞬沈んだ。
「黄瀬くん、…ずっと家にいたんですか」
「うん。…ずっと考えてた、黒子っちのこと」
「黄瀬くん。ごめんなさい。もういいです」
「……もういいって、なに」
「僕のためにいっぱい考えてくれて、ありがとう。…宅配の不在表ポストに入ってました。インターフォンが鳴っても気づかないぐらい、一生懸命僕のこと、たくさん考えてくれてたってこと、嬉しかった。だから、もういいです。ごめんなさ、」
「謝らないで。謝ることじゃない。だって、黒子っちがずっと、俺のこと思ってくれてて、それでも俺のために隠そうとして必死に耐えて、……それでも溢れてきちゃったぐらいなんでしょ。そんな大事な気持ちを、謝る理由なんでどこにもない」
「でも、」
「俺、考えれば考えるほど、よく判らなくなった。自分の気持ち。だから、…………とりあえず、オナニーした」
「…………は?」
「だから、黒子っちのいやらしい姿妄想しながら、オナニーしたんだって」
「いや、2回も言わなくていいです。……えっと?」
「出来たの。そしたら、自然に」
「黄瀬くん、でもあの、それって、」
「同情とか、無理してるとかじゃない。……それに俺、無理してもいい。黒子っちのためなら」
「…そんなの嬉しくないです。それってすき、って言わないじゃないですか」
「俺もそう思った。…でも違うと思う。黒子っち、黒子っちはね、俺にとって宝物だったんスよ。一生の、最初で最後の宝物だったの。黒子っちが覚えてないって言った、あの縁側でのこと。……1年のインターハイで青峰っちに負けて足壊しかけて暫くバスケ出来なくて、塞ぎこんでたときのこと。黒子っちはぼけーっと座ってるだけの俺にいっぱい話しかけてくれて、………そんで、青峰っちとの試合は負けたけど、俺が一番格好いいって言ってくれた。黒子っちは、とりあえず慰めようって褒め倒しただけだったんだろうけどさ。俺はとにかく嬉しくて、この子がそう言ってくれるなら頑張ろうって思えた。ヒーローって約束もあって、それで、今までやれてきた。…そんな黒子っちが俺のこと、すきだって言ってくれて嬉しかった。…確かに、今迄全然そんな風に意識したことなかったのは認める。けれど、俺、追いつきたいって思った。黒子っちがずっと先にいるのなら、無理してでも追いかけたい。追いついて、一緒に歩きたい。………これって、トクベツな気持ちだって、言えるんじゃない?」
 黄瀬の長い指がゆっくりと黒子の髪に触れてくる。黄瀬がこちらへ寄ってくるのに、ふわりとまたソファが一瞬深く沈んだ。どうしよう、と迷った時には既に遅く、黄瀬の心臓がすぐそばにあった。
「待っててね。……大丈夫、きっとすぐに追いつけるから」
 心臓の音がうるさい。黒子自身の音と、…黒子を腕のなかに抱きとめる黄瀬の音だった。今にも爆発しそうなぐらい、うるさい音がふたつ。共鳴するように、呼び合うように、鳴り響いている。黄瀬が世界でいちばんん近くにいる。
「すきだよ、黒子っち」

walatte

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