桜を見に行こう|ジュンひよ

 両親と住んでいた二階のボロアパートの、リビングにある窓の向こうには、桜の木が咲いていた。
 公園に続く通りに、一列に桜の木が植えられている。道は凸凹で、狭いので自転車も自動車も走るひともほとんどいない。歩いているのはほとんどが高齢者か主婦で、たまに子供連れの家族の楽しそうな笑い声が、窓を閉めていても木造の薄い壁を越えて聞こえてくる。
 たった一枚の壁が、断崖の絶壁みたいに感じることもあった。
 けれど良いこともあった。それはわざわざ外に行かずともリビングの窓を空けるだけで目の前には桜並木が広がっている。花見に行く必要がないのだ。
 父親はそれなりに有名で外に出たら騒がれるかも知れないので、部屋にいたままで花見ができるというのは便利なことこの上なかった。
 日曜の午後に、父親は瓶からグラスにビールをうつし、鼻歌を歌いながらぐびぐびと飲んでいく。母親は家だというのに雰囲気から入りたいのか紙の皿におかずを盛っていた。唐揚げやウィンナー、茶色いものを率先して必死にとる自分。この花見の日だけは、野菜もとらずに好きなものだけ食べてもあまり怒られないのだ。
 南向きのアパートには窓から日差しと、桜の花びらが入り込んでいた。カーテンをとって窓を開ければ陽が沈むまで灯りをつけなくてもじ十分なぐらい、明るくなるのだ。
 ジュンの記憶に強く残っているのは焦げ茶色のちゃぶ台にいくつも並べられた白い紙皿、その上に乗っている茶色いおかず。胡座を描いた父親の昔の話に、幸せそうに相槌を打つ母親。夢のように、綺麗な光景だった。

 どうして急にそんなことを思い返しているのかと言うと、ベッドの上で宴もたけなわ、とはすこし違うけれどそれなりに口付けを交わしてさぁいよいよというところで、日和が「桜が見たいね」なんて素っ頓狂なことを言い出してきたからだった。
「……」
 ハアー、とおおきなため息をひとつ。隠す気などさらさらなかった。いやまじでこのひと何を言っているんだろうか。だって残暑の気配を残しつつも季節は秋に移りつつある今日この頃、人工的に作られた桜であれば見に行けるかも知れないけれど。もしくは秋の桜であれば、どこにだって咲いているけれど。それを言う必要がなぜ今だったのかさっぱりジュンには理解できなかった。
「何そのため息! 失礼しちゃうね」
「いや失礼なのはむしろあんたのほうじゃないですかねぇ」
 これ以上喋らせると築いてきたそういう雰囲気が台無しになりそうで、ジュンは強引に日和に顔を寄せる。ちゅっ、とわざとらしく音を立ててくちびるに吸い付き、下唇を舐めてみる。けれど日和のうすく桜いろに色付いたそこは、開かれる気配がない。
「…………、」
 たぶん十秒もなかった。見つめあっていた時間は。
 だいたいこうなるとジュンの方が視線を逸らし折れることになる。日和の端正な顔立ちで真顔か、朗らかな微笑みを向けられるとどうにも弱いのだ。日和は笑っていることが多いので、ほとんど見つめあった場合は負けということになってしまうのだけれど。そもそも口でも勝てはしないのだから、日和が折れない限り、ジュンは彼の言い分にどうしたって勝てないのだ。
 顔を離し、ジュンはベッドの隅に座った。桜の話を続ける了承だと受け取った日和も起き上がり、ジュンの隣に座った。茨が手配した高級ホテルベッドが音もなく深く沈む。
「で、なんでなんです?」
「うん。きみがよく寮で一緒にいる後輩の子、いるじゃない」
「あぁ、サクラくん」
「そう! その子、苗字のまま、髪の色そうだから。昨日もずーっときみと一緒にいたみたいだしね。ジュンくんはたいそう桜が好きみたいだから、じゃあぼくも見たいなって」
 にっこり。と聞こえてきそうなぐらい、綺麗
口元を吊り上げる日和に悪寒が走る。
 あ、あーーーーーっ。
 そうか、と昨日の記憶が思い起こされていく
昨日はこはくからボーカルレッスンに付き合ってほしい、ジュンはん歌うまいから、と頼まれて、Edenでは末っ子扱いで後輩に頼られることなど滅多にないジュンは浮き足立ってしまい、スマホにいくつもメッセージと着信が入っているのにもまったく気づかないまま、こはくとのレッスンに一日を費やしてしまっていたのだ。今日の仕事に向けて、前日は軽く打ち合わせしておこうかついでにぼくの世話もしてねオフだからと日和とあらかじめ言われていたのにも関わらず。
 結局、夜に気づいたけれど日和はとうに寝てしまっており、朝は挨拶もまともにしないレベルで機嫌を損ねており、それをなんとか謝って
世話をして仕事を無事に終わらせることで直ったものと思っていたのだけれど。どうやらそうではなかったらしい。
「おひいさん、あの、すんません」
「別にいいね。ジュンくんも先輩ヅラ吹かせられるのが楽しいんでしょ。Edenとしてはまだまだだけれど、それでも外に向けてはメンバーの一員として、悠然としてほしいしね」
 めっちゃ機嫌悪そうだなあ。先輩ヅラなんてちょっと普段言わない言葉遣いはたぶんジュンに対する当て付けだ。
 何かなんでも、ジュンの最優先事項は自分でないと気が済まないらしい。なら。
「おひいさん、来年になっちゃうんすけど、うち──オレの実家来ません?」
「…………はい?」
「いや、桜が見れるんすよ。オレんちのすげえ狭いベランダなんすけど、目の前に桜の木があって……外に行けなくてもすっげえ綺麗だから、いつか、あんたを連れていきたくって」
「……親御さんがいるんじゃないの?」
「? そうですけど、あんた別に親のこと、気にしてないでしょう。配慮はしてくれましたけど、同情なんてひとかけらもしてなかったし。……それに、まあ、そろそろ挨拶ぐらいいいんじゃないですかねぇ。あんたが望む限りオレはあんたと歌い続けることになるわけだし、現状それが終わる予感はしないんで。オレ、絶賛成長中で、まだまだ育て甲斐があるっしょ?」
 いつも喋っている側の日和は、ジュンの持論
大人しく聞いていた。終わった後、うん、と静かに相槌を打つ。
「プロポーズかと思ったね」
「あぁ? 単にこれからもずっといる相方なら、親に挨拶してもおかしくねぇってだけでしょうがよ」
「うん? うん……そうだね? でも、そうだね。きみに記憶に残る、桜の景色はお目にかかりたいな。さっき思い出してた?」
 さっきというのは日和に桜の話題を出されたときのことだろうか。こくりと頷いて、ジュン
肯定した。
「なんだかとても、優しいかおをしてたから。きっととても、美しい光景なんだろうね」
 それはでも、あんたには負ける美しさ知れませんけど。とは言わなかった。
 ゆっくりと双眸を緩めた一瞬を逃さず、ジュンは再び日和に顔を寄せた。桜いろのくちびるは、今度はジュンを招き入れた。



walatte

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