初めから勝負はついていた|ジュンひよ
セックスした次の日、おひいさんは昨日と同じ香水をつけてくる。
「忘れたかったら、忘れてくださいね。オレもそうしますんで」
最初におひいさんを抱いた日に、なかったことにしたければと最後通告で、オレとしては最大限に配慮したつもりの発言は、逆におひいさんの反感を買ってしまったらしい。
新しいものが好きで古いものが嫌いなおひいはんは毎日のように香水を変える。香りの名前すらろくに知らないオレはこんなに種類があるのかと驚きながら、こんなの毎日決めるのは逆に疲れないかと相方をすこし心配したりもした。
だってかの有名人が言っていたのだ。人間は一日に二百の選択をしていると。選択には少なからず思案する労力が消費される。彼はそれを厭い、毎日同じ服を着ることで『選択』という行為そのものを減らしていた。
それについては、毎日同じ制服を着ているオレも楽でいいと同意見だった。現役のアイドルである著名人な講師もいるものの学園に登校するだけなのに毎朝香水に悩む時間は無駄でしかない。寮部屋のドアの前でおひいさんの準備が終わるのを待ちながらそんなふうに思っていた。
おひいさんが香水を変えなかった真意は当日すぐに判った。
レッスン室で耳元で、
「思い出してる? これで忘れられないでしょ?」
と囁いてきたのだ。
なんて負けず嫌いで、強引なひとなのだろう。
「…….あんたさぁ、本当にタチ悪いですよ」
「あはは! ひとのことを誰とでも関係を許すようなやつって思ってるほうが、失礼だしタチ悪いんじゃない?」
「……思ってないです。ただ、オレのことは暇つぶしかもって。ただの、捌け口なんでしょう?」
いつ捨ててもいい、替えがきくのだと口を酸っぱくするほど言われてきた。むしろいつもそう言ってるのはあんたでしょうが。喉まで出かけた言葉だった。
「ぼくは、痛いのも辛いのも大嫌いだね」
双眸が緩む。長いまつ毛が目元に影を落とす。ほんの一瞬だけ垣間見えた翳りは、流れ星みたいな速さですぐに消えてなくなった。
「……えーっと、つまり逆がいいってことですかねぇ」
おひいさんは自ら抱かれる側を所望していた。慣れたふうだったから経験があってそのポジションを好んでいるのだと思い込んでいたが、違うらしい。
「ううん。このままでいいね」
「? 痛いのも辛いのも嫌なんでしょうが」
「うん。だからだね」
頷いたおひいさんからふわりと香水が舞う。強い香りが鼻腔をくすぐり、昨夜の強烈で淫靡なおひいさんの記憶を鮮明にフラッシュバックさせる。
「今日、ね」
艶を持ったくちびるがゆっくりと言った。なかったことになんてさせやしない。夜にもう一度、とおひいさんは命令しているのだ。
「……はぁ。判りましたよ。あんたの望みはなるだけ叶えてあげたいですし」
「うんうんっ、いい日和! あとは早くレッスンが終わるようジュンくんが頑張るね!」
思い返せば、オレたちのユニットが誰かに罠を張るように、オレも知らず知らずのうちにおひいさんの罠にかかっていたのかも知れない。
いつも昨晩の香りを纏ったおひいさんが近づくたび、鮮烈に記憶が蘇り、どうしても手を伸ばしてしまう。
がっついて歯列をなぞり、舌を絡めとり、口内を蹂躙して離れたとき。視界の隅でおひいさんはたしかに舌なめずりをしていて、それがあまりにも愉快そうで扇情的だったから。
きっとオレは一生、このひとには叶わないのだろうと確信した。昔からずっと言われているが、本当にその通りだ。
────が、負けなのだと。
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