祝福|ジュンひよ
ピピピ、と体温計が鳴る。出ている数字にはあ、と自然にため息が出る。今日は日曜日で学校は休みだったがレッスンが入っている。始まるのは一時間後なので、すぐにメアリの散歩から戻ってくるであろうリーダーに報告しなければならない。
でもその前に喉が渇いた。何か飲みたい。レッスン中によく持っていくスポーツドリンクがある。それは共同の冷蔵庫に入っているはずだが、そこまでいく元気はなかった。
できなくて宿題になっていたステップをなんとかものにしていたのに。一日休めば取り戻すのに数日かかるとスポーツでもよく言われていて、ジュンも身をもってそれを実感している。
じわじわと焦燥が胸の裡を侵食する。
「ただいま〜! ご主人さまのお帰りだねっ! 盛大にお迎えするといいね〜!」
ドアが開き、メアリが元気にワンと吠える。ズキズキと痛む頭を抱えながらソファから起き上がるとばちっと日和と目が合った。
そっと双眸が悟ったように緩み、日和はソファの背もたれに頬杖をついて見下ろしてくる。
「はい」
ぽとっとお腹の上に落とされたのはドラッグストアの文字が入ったレジ袋だった。開くといくつかの薬と冷えピタと栄養ゼリー、そしてジュンがちょうど欲しがっていたスポーツドリンクが入っていた。
「お休みするんでしょ? 先生にはぼくからお伝えするから、気にせず寝てるといいね」
「……なんでわかったんですか」
「見てたら判るね」
「オレはいま熱測って判ったんですけどねぇ〜……」
「ふふ、ジュンくんはまだまだだね!」
メアリはちいさな歩幅でとてとてと歩いて定位置のソファの上に横になって、すやすやと眠りに落ちてしまった。だいぶ遊んであげたからねと日和が暖かい視線をメアリに送っている。思ったより遅い帰りだったのは散歩だけではなかったからか。メアリを寝かせるために一緒に遊んだのだろう。
「……心配されてます?」
「え? ぼくが? ジュンくんを? どうして?」
ゆっくりと日和の右手が落ちてくる。目を覆われて真っ暗になる。
手を洗ってきた日和の手は湿っており、ひんやりと冷えて気持ちがいい。その心地いい手をとって離していく。視界はすでに眩かった。
「そんな必要、ぼくにはどこにもないよね? きみが使い物にならなくなったら、替えを探せばいいだけの話なんだし……。──早く元気にならないと、置いていっちゃうからね」
眩さのなか。
妖しく口元を吊り上げて微笑む相方の底知れなさにぞくりと震えた。武者震いなんて空想上の出来事がと思っていたが、実在するのだと身をもって体感した。
無感動な人間なはずなのに。日和に翻弄されているうちに、自分の知らない感情がどんどんと湧き出てくる。こう言っているいまも。
「上等ですよ。すぐにドン底から這い上がってみせますんで」
自然と笑みが溢れる。もう下なんてないってぐらい真っ暗な谷底にいるのだ。後は這い上がってこの天上人がいるところまで駆け上がっていくだけ。目標はありえないぐらい高いところにいるが、高ければ高いほどいいと言うのはその通りだ。日和から得られる刺激は劣等生として過ごしていたころとは比べ物にならない。隣にいたければ一片の弛みも許されないと思い知らしてくる。
「うん、」
日和は満足そうに頷く。
「じゃあ、おやすみジュンくん。こないだの宿題のステップはまた今度。このお部屋で練習なんかして埃を立たせたりしたら許さないからねっ。大人しく寝てるといいね!」
「はいはい……。判りましたよぉ〜。おやすみなさいおひいさん、あといってらっしゃい」
「! ……うん」
ジュンの短い前髪を日和の手の甲がかき分ける。露わになった額にちゅ、と日和のくちびるが落とされた。
「行ってくるね」
ひらひらと手を振って、昨晩ジュンが用意していた荷物を持って日和は部屋を出て行った。
……たまに日和がキスをしてくるのは外国に行ったことがあって文化に直に触れているからなのだろうか。さすがに初めてされた時ほどではないとは言え、それでもされるたびどきどきする。耳まで真っ赤に熱くなっているのは、きっと熱のせいだけではない。
部屋のなかは突如静かになり、メアリの寝息だけが聞こえる。ジュンは熱のせいで重くなったからだをなんとか奮い立たせて起き上がり、自分のベッドまで上り着いた。日和のくれた冷えピタシートを額に貼って、栄養ゼリーを食べて薬を飲み横になる。
……優しいのか、優しくないのかよくわかんねぇひと。
いくら天上人でも興味のない人間の体調なんて判らないはずだ。ユニットの相方として少なからず日和はジュンを大切に、見てくれている。薬も食事も買ってくるぐらいには、気を遣われている。
ただその一方で置いていくというのは紛れもない事実だと凛とした声色が告げていた。ジュンが少しでも堕落し結果を出さなければ日和は構わずジュンを捨てるだろう。
ジュンに与えられたのはあくまで機会で、居場所でもましてや永住権でもない。楽園にいたければ自分がその市民権を得るに足る人物だと証明し続けなければならない。とんでもないひとの手をとってしまったと思うが、後悔はしていない。むしろ路地裏に一筋のひかりを与えてくれた日和に、感謝している。
体調回復したらまたステップやり直して、先生に見てもらって……、必死で回復したあとのスケジュールを組み立てていると、まどろみが降りてくる。また熱が下がってから考えようと、ジュンはからだの言う通りに瞼を閉じることにした。
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