やさしい部屋|ジュンひよ
救済ってものは、もっと浪漫があって大々的に訪れるものだと思っていた。
ジュンに訪れたどん底から這い上がるチャンス、すなわち救済は、ふかふかのソファに座り、呑気に紅茶を嗜んだあと。まるでダンスの誘いのように凛々しく告げられた。
「きみ、いい声をしているから、あしたからぼくとユニットを組むね!」
……正直わけがわからなかった。ただ、それがチャンスであるのだけは頭の良くないジュンでも理解できた。夢ノ先学院で有名だった実力派のfineにいた一つ上の先輩、巴日和。彼からの誘いを断る理由は、ジュンにはない。
爪が剥がれても泥水を啜りながらでも何がなんでも這い上がってやる。失うものがないと言うことは、それ以上最悪になることがないということで、ある意味開き直ってしまえるからよかった。日和の誘いがただの気まぐれでも実力をつけて本気でその気にさせてしまえばいい。むしろそれぐらいの気持ちでしがみつかないと振り落とされる。
日和はやっぱり何を考えているか良くわからなかったし、我儘だし、好き放題する。
ただ日和の言う通りにすると信じられないぐらいいい結果が出せるようになって、それがジュンにとっては驚きで、そしてとても嬉しかった。よくあるその場凌ぎのレッスン代稼ぎのトレーナーとは違って、日和はEveと、ジュンのアイドル人生を慮って将来的な視野も含めてプランを練っている。いつでも辞めさせられつるときつく宣言してくるしそれが冗談ではないことは理解している。と同時に、続けられることも日和はきちんと計画していた。愚かなことに気づけたのは、Saga計画のリバースライブが終わってからだったけれど。
甘やかすことが必ずしも優しさには繋がらない。厳しく、死ぬ気で努力しなければ振り落とす勢いで接することを、少なくともジュンは真摯だと受け取った。
努力すれば報われるようにオレを育てたことは、いまのESで天祥院英智さんがしてるのと同じだと思う。
これ、言ったらおひいさんはめちゃくちゃ美人の顔を無にしてキレてくるだろうから言えねぇけど。たぶん三日ぐらい口きいてくれねぇでしょうし。
玲明学園で過ごしたふたりの部屋はジュンとこはくがESの寮に移り住んでもそのままにされている。たまに仕事がなくて学校だけの日に、こっそり訪れてひとりで泊まっている。ESは遠いし次の日が朝から学校であれば圧倒的に泊まった方が効率的だからだ。もちろん家賃はジュンが払っている。このことを日和は知らないはずだ。
あの部屋はこはくと住んでるのももちろん楽しかったが、手放してジュンと日和がともに暮らしていた形跡が何も無くなってしまうのがすこし怖くて、ジュンはどうしても誰かにやれる気になれなかった。幼稚だねって日和に笑われるかも知れない。
でもまぼろしだと見間違えるくらい充実した、あっという間の一年だったから。
忘れたくないし、忘れてほしくない。オレにもおひいさんにも、……玲明学園にいるひとたちにも。
「え?」
「だからね。来年は新入生が予想以上に入ってきそうだから、部屋を確保できないかも知れないんだよ。少しずつ、ものを今の寮に移したほうがいいんじゃないかねぇ」
久しぶりに寮に行くと、入り口で寮母が部屋のリストをジュンに見せるようにしてそう告げた。
どうやら寮母はジュンが片づけが面倒で部屋を借りたままにしていると考えているらしい。
「そう……っすか。わかりました」
否定するにもうまく説明できる気がせず、ジュンはこくりと頷いた。
コズミックプロダクションの傘下である玲明学園は、所属ユニットの台頭もあり人気が鰻上りなのだそうだ。体験入学が抽選になるぐらい応募が募り、倍率がとんでも無い数字になりそうなので至急今年度用の試験を厳しくするよう学園側が思案しているところらしい。
来年春に卒業生となるジュンにとっては誇らしいことだ。その一端に少しでもなれていたら嬉しいと思う。
……だけど本当にそうなるのなら、家具は早めに退去させたほうが良さそうだ。日和もジュンも新しい部屋に家具は揃っているし、捨てるしかないのかも知れない。
それは、……なんだかとても、さびしい。思い出しごと、捨てられてしまうみたいで。
古いものが嫌いな日和は笑うだろう。でも思い返すとなんだかんだ日和がいてメアリがいて、悪くない日々だったから、すこしぐらい名残惜しく感じたっていいだろう。幸いまだ卒業まで時間は半年近くあるから、気持ちを整理しながら準備すれば──
「あっジュンくん! やっと来たね! 遅かったね! まったくもう、ご主人さまを待たせるなんて……奴隷として失格だねっ?」
がちゃ、とドアを開ければ、白いソファに座った、半年前までは日常だった風景がそこにあった。
「……お疲れ様です。あんたなんでいるんですか?」
「どうしてだと思う?」
「それを聞いてんですよ。あんた、この部屋まだオレがとってること知ってたんですねぇ」
「ぼく、玲明学園の先生方とは連絡取り合ってるしね。今年のパンフレットにも卒業生インタビューとして載ってるし。ここに来る機会は意外とあったんだよね。タイミングいいのか悪いのか、ジュンくんとは会えなかったけど」
つまりジュンが知らないところで日和もこの部屋で訪れていたと言うことか。
「ジュンくんが払っている部屋ならぼくが使っても何ら問題ないよね? そう、ぼくたちは」
「はいはい一心同体って言うんでしょう。……本当、あんたって太陽みたいですね。湿気ってたところに突然現れて」
すとんと日和の隣に座る。「湿気っちゃうのは悪い日和……! ぼくのおかげで元気になってよかったね?」と勝ち気にくちもとをつりあげた。これはさすがに反論のしようがない。だって日和の言う通りなのだ。
「ここ、あんたにとってはどうか知りませんけど、オレにとっては思い出の場所で。だから借りてそのままにしてたんです。……笑いますか?」
「なぜ? 家庭みたいな大事な場所を守りたいのはとうぜんのことだね? ぼくも実家が大好きだからねっ。ジュンくんにとって、ここはそんな場所だったってことだよね?」
「……あんたはどうなんですか、おひいさん?」
日和のうすいみどりの髪に手を滑らせる。無意識に伸びていた手は、あきらかに懇願していた。日和にもそうであってほしいという、ささやかな願いだった。
「ぼく、嫌いなやつとは一秒だっていたくないね。そんなぼくが一年も住んだこの部屋がどうかなんて、ジュンくんがいちばん知ってるんじゃない?」
「……、ずりぃ回答」
口を尖らせながら、そのまま薄いくちびるに口付けた。日和はそのあいだも、ずっと笑みを絶やさなかった。
「オレにとってここは、あんたがどん底から這い出してくれた救いの場でもあったから──……だいじなんです」
「救い……ね。そう思うのは自由だけど、ぼくは慈善事業できみと組んでるわけじゃないのは……うん、もう知ってるもんね。良い日和!」
するりと手が伸びてきて、今度はジュンの太ももに日和の手が置かれた。日和がジュンに触れてくる合図だ。ジュンはもうぴくりとも動けない。そして交わした口付けはとても甘くて、どこにもいかないよと言ってくれているみたいで。
思い出の場所がなくなっても、あんたとの未来は続くんだ。……おひいさんは、きっとそれを、オレに。
ジュンはとても安心して、ユニットに誘われた始まりの場所で、まるで恋人にするみたいにやさしく日和を抱きしめた。
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