眠り姫にはなれない|ジュンひよ
天気予報が一日中雨だと告げているのと同時に、外からぽつぽつと雨音が聴こえてきた。急いで洗濯物をしまい込んで窓を閉めると、日和はリビングのソファに膝を折って座っていた。眉を寄せて頬を膨らませている。
今日は晴れたらメアリを連れて散歩に行こうと話していたので、わかりやすく機嫌が悪くなっているのだろう。
キッチンに向かい、お湯を沸かしてティーポットとティーカップ、そして金色のティースプーンと茶葉を取り出した。沸騰したお湯でポットとカップを湯通しさせてから、茶葉を淹れる。数分蒸らしてからカップにお茶を注ぎ、その間にオーブンで温めていたスコーンも一緒にソファの前にあるテーブルへと並べて、日和の隣へと座った。
「機嫌直してくださいねぇ〜。はいどうぞ。おひいさんの好きな茶葉にスコーンです」
「……かわいくないね!」
「はい?」
「もっとどうやったらおひいさんの機嫌がよくなるんだって慌てふためいてほしいねっ。つまらないね!」
「いや……あんた食ってるじゃん」
綺麗な所作で紅茶を飲みスコーンを口に入れているのは、口に出した主張とは矛盾が生じる気がしないでもない。
「それとこれとは別問題だねっ。これはジュンくんがぼくに作ったものなんだから食べても問題ないはずだね!」
「ないです。ないですけど、太り過ぎには気をつけてくださいねぇ〜?」
ここはESから少し離れた芸能人が多く住むマンションの一室だった。つい一週間ほど前、ジュンは日和を寮から半ば連れ出すようにしてここに住まわせた。
日和が眠れなくなった。
それを知ったのはだいぶ症状が悪化してからで、メイクでも隠せないほどクマができて、レッスンでのミスが増えてからだった。
結局知ったのだって本人から告げられたわけではなくて、気がついたら日和に自分にはない空白のスケジュールができていて茨を問い詰めたところ通院だと症状と一緒に告げられたのだった。
そのうち治ると思ってたんだよね、と消えないクマを指摘したときの顔が忘れられない。自分への失望、過信、不安……そんなものがぐちゃぐちゃに混ざった絵の具のいろみたいに、一言では形容できない表情をしていた。
このひとでもこんな顔をするのだ、と気づいて、単にこれまで自分が気づけなかっただけなのではないか──おひいさんは何も変わっていなくて、オレが気づけるようになっただけではないのか──そんな仮説に辿り着いたときに、情けなくて無力感に苛まれて、やり場のない気持ちは壁をパンチしても手が痛いだけで晴れることはなかった。
ずっと前からおひいさんは自分は神さまじゃないと言ってた。
オレと同じ、人間だったのだ。
だから傷つき、眠れなくなることもある。
原因については思い当たるものがいろいろとありすぎた。不幸自慢が嫌いなこのひとは口にこそしないものの、そこそこに波瀾万丈な人生を歩んできている。まずは環境を変えて静養するのがいいのかも知れない、と思って、初めて不動産屋にひとりで行って契約した。茨に報告したらそんな物件に殿下を住ませる気ですかとクーリングオフを使用されて違う芸能人御用達の高級マンションをあてがわれてしまったが。
ちょっと環境変えてみませんか、と誘ったら面白そうなんて呑気な快諾が返ってきて、ジュンの思惑なんてこれっぽっちも気づいてなさそうだ。あまり気を遣われたらストレスになりそうなので、ジュンから静養だとわざわざ話すつもりもないけれど。
もちろんこの生活をいつまでも続けるつもりはない。数ヶ月先に、テレビデビューさせてもらった歌番組が最終回を迎えるので呼ばれていて、デビュー曲を披露する予定がある。それまでに日和が回復して、デビュー曲をもっと進化したかたちで歌いたかった。日和も同じように考えているようだった。このあいだイヤフォンから聞こえた曲がまさにそれだったので。
雨音が止まないなか、茨からもらったその懐かしのテレビデビューの映像をスマホで再生する。日和も隣から覗き込んでくる。肩が触れた。
「あ〜回転が遅いっすねオレ」
「ダンス全体的に遅れてるし動きが固いね。自分のものにもできてないしね」
「このもうちょっと振り入れてもいいっすよね」
「棒立ちみたいになってるもんね」
「頭真っ白だったんですよ。それならおひいさんだって、」
「ぼくだって?」
「……おひいさん自身が判ってるでしょうが」
あの頃だったら思い浮かばなかった未熟な点がぽんぽんと脳裏に浮かんで、でもそれは口にできなかった。言わなくてもジュン以上に日和は自覚しているだろう。
変なの、と日和は笑っている。クマのくっきり残った笑顔はなんだか重たくて、曇っているように見えた。それが嫌で近づいて目元に左右それぞれくちびるを落としてやったら、海外ドラマのお父さんみたいだね、と日和がまた笑うので。恋人でしょうがよ、と今度はくちびるにしてやった。
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