糖度と湿度|ジュンひよ
誘ったのは日和のほうだった。
もはやうっすらとした記憶だった。日和に比べたらジュンの記憶力なんて月と鼈のようなもので、英単語なんて一日経てばスペルどころか意味さえ忘れ去ってしまう。まぁどちらにが誘ったにしろ、きっと関係ないのだろう。自分たちは一心同体なのだから。
煽られて真っ最中で、ジュンはとっくに焼き切れた思考回路のなかだった。そんななかでとにかく日和が声を出しすぎないようにと指を口内に挟んだり、肩を噛むように肩口に顔を引き寄せたりするのだけれど、日和はいっこうにそれをしなかった。声を涸らさないための仕方ない方法だとしても、噛むという行為は日和からしたら下品な行為なのだろうか。しょうがない、とベッドに脱ぎ捨ててあった制服のネクタイを口元に持っていって「縛られるのと自分で噛むのとどっちがいいっすか」と聞くと、睨みながらもヘリ縫いのあたりを遠慮がちに咥える。
ここまで苦労してやるセックスってなんなんだろうな、と疲労感に襲われながら、でも途中で辞めてやる気は全くなかった。
明日は新曲のレコーディングだ。
日和は声を出さないのにだいぶ自信があったらしく、ネクタイなんて要らなかったとホテルのバイキングで朝食をとりながら主張していた。日和のプロ意識からしてきっと嘘ではなかったのだろうけれど、見てる側からして声を我慢してるのも漏れるかハラハラする状況もジュンのほうが耐えられそうになかった。はいはい、といつもの相槌を打ちながらウインナーを口に運ぶ。
新曲のラブソングは、等身大の高校生ではなく少し上の世代の、大人の恋を彷彿させるような歌詞となっている。五年後、十年後、等身大の世代になった時にまた違った味が出るようにとあえてすこし背伸びするような曲に仕上げてもらった。ピアノのメロディを中心にゆったりとしたテンポとなっており、ダンスはこれから振付をつけるが、聴かせるのがメインで添える程度のものにするよう依頼してある。日和はどっちかが弾き語りするのもいいかもね、なんて曲をもらった時満足そうに語っていた。
駆け引きを楽しむ、打算的な恋。高校生のジュンには到底想像のつかない歌詞だった。何度か自主レッスンも重ねて、日和にも見てもらってレコーディングにも臨むこと自体は認めてもらったから、それなりに完成度をあげてきた自信はある。避暑地にある作曲家の別荘でのレコーディングも、ジュンは楽しみにしていた。
「ジュンくん、今日は声が甘くていいね〜! 最近恋人といいことあったりした?」
「……はい?」
「あっ、こういうのアイドルには厳禁なのかな。ごめんね、僕アイドルと仕事するの久しぶりで。これまでの曲聞かせてもらったけど、ここまで表現できるとは思ってなかったよ。ちょっと掠れてて、またそれがいい感じ」
そう、なのか。
ジュン自身はレッスンの時とは違う手応えに困惑していたところだった。なんだか自分の声が自分と離れたところから出ているような、不思議な感覚。
「このぼくが選んで鍛えたわけだから当然だよね!」
隣で日和がうんうんと頷いている。目が合えばしてやったりみたいな顔でウインクされて、それは昨日キスされて誘われた表情と全く同じだと、記憶力のないジュンにでもはっきりとわかったから。
「……あんた、それで昨日?」
「あはは、なんのこと? ほら、ジュンくん前を見て! 集中してねっ、レコーディングはまだまだこれから!」
言われた通りに前を見る。昨日口付けされた日和のやらかい唇の感覚を思い出すように、人差し指でおのれのくちびるをなぞった。
『……判るよね、ジュンくん』
耳元で囁かれた吐息の湿度を思い出し、火がついたように体温が上がった。まったく敵わないなぁと思いながら、日和に引き出された声色を、ジュンは大事に歌にのせていく。
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