序:スノウ・リトル⑴|ジュンひよ
活動休止前、最後のライブが幕を閉じて、打ち上げも終わって外に出てしばらくしてのことだった。凪砂と茨と会場を出てすぐロケバスに乗っていたのだが、急に日和が運転手にここで降ろすようにと指示し、ひとり降りていこうとするものだからいつものくせで一緒に降りてしまった。車のドアが完全に閉じる寸前に見えた茨の表情はどこかすまなそうで、だったら最初から降りないように言ってくれればよかったのに、と思う。
もちろん、そうできない理由があるのは察している。先ほどまでのライブ、活動休止の理由を、ジュンはよく知らないままだった。凪砂と日和がここのところずっと調子が悪く、その原因が単純に体調の問題ではなさそうなのは、普段のレッスンをよく見ていたから判っていた。休止するまでのスケジュールを説明する茨の、恐らくは本位ではないのであろう悲痛そうな面持ちに、罵倒して言及するのは躊躇われた。ただ、ここでも自分は話してもらえないのだと、空虚にも似た無力感に苛まれた。
いつか、自分が先輩の二人や茨に負けないような実力を身につければ。なにかと大人ぶるあの三人に、ただ守ってもらうだけじゃなくて。なんでも話してもらえる。頼ってもらえる。
漠然と、それが早いか遅いかだけの問題だと思っていた。
まさかその機会自体が失われるなんて、思ってもみなかったのだ。
ジュンは成人した数日後に、こっそり指輪を買っていた。シンプルな作りだがそこそこ値段ははる。芸能人であるジュンの収入の一年分はかかった。それは、ジュンがもっと成長して先輩に立派になったと認められたときに、渡そうとしていたものだった。
その機会が永遠に失われそうだと分かり、すぐさま渡そうかと迷ったが、ジュンには出来なかった。どうしても不器用で、大事な決意を取り下げられなかった。
けれどここで日和とさよならしたら、次いつ会えるかは判らない。互いの今後について今日まで何も話してこなかった。怖くて逃げたのだ。これまでの関係性を、全てなかったみたいに、日和が自分以外のなにかを選択してしまうことが、怖くて、寂しくて。
降りた場所自体は閑散とした住宅街だったが、しばらく歩いているとイルミネーションが街を照らす繁華街へと出た。行き交う人々がみんな浮き足立っている。そういえば今日はクリスマスイヴだった。
ウインドウに並ぶクマのぬいぐるみを、かわいいねとはしゃぎながら眺める日和の名前を呼んだ。そのままの名前ではない。ジュンがいつも呼ぶ皮肉のつもりだった渾名だ。日和はいつも通り全く皮肉が通じておらず、少しばかり口角を上げて、なあに、とたずねてくる。
──ジュンには、勇気がなかった。
右手ポケットに指輪、左ポケットには部屋の合鍵。それぞれの手に日和に見えないように忍ばせたジュンは、その手を日和の前に握ったまま見せた。
どっちかを選んでください。
と言うと、日和はキョトンとして、それからどっちもくれればいいね! と予想通りの返事をした。
「駄目です。サンタさんは一人しかいないんすからひとつだけっすよ」
「え〜。ケチなサンタさんだね! ……ふふ。これは、今日まで一緒にやってきたぼくへのジュンくんからのプレゼントということ?」
「まぁ……そんな感じですねぇ」
「じゃあ本当に……どっちももらいたいところだけれど、しょうがないね。でも、」
すっと、左手の甲に人差し指をあてて、それから両手でゆっくりと解かれる。寒さで悴んだ手に一気に体温が灯っていった。こんな凍えるような雪の日に、どこにそんな暖かさを残せているんだよと不思議に思う。
「……あ?」
雪だ。
「降ってきたね。……綺麗だね」
あちこちでホワイトクリスマスだと歓声が上がっていた。
「これって……ジュンくんちの鍵?」
やがて開ききったてのひらに出てきた鍵を手にとって日和はありがとう、と珍しく素直に礼を述べた。
「あんた、放っておいたらいつか路頭に迷いそうなんで。……知らないところで死なれたらこっちもたまったもんじゃないんで」
「あはは! ジュンくんに未来を心配されるなんて悪い日和! ぼくは貴族だしそんな無様なことにはならないね」
手にしたいたバッグの、いつも自室の鍵を決まっているポケットへするりと吸い込むようにジュンの合鍵が仕舞われていく。受け取ってもらえたのに安心して気が緩んだのかくしゅんとくしゃみが漏れた。
「確かこの上でクリスマスマーケットをやっているんだよね。ホットチョコレートでも飲もうか」
ジュンだけならば絶対に踏み入れることのないデパートを指差して、日和はジュンの手を取る。左の合鍵が手に渡り何もなくなり身軽になった方の、だ。ジュンは右手を指輪を隠したまま、そっとポケットにしまった。
「ジュンくん。その右手のプレゼント、いつかぼくにちゃんとちょうだいね」
日和が、ジュンの右手だけが怯えるように震えているに気付いて、あえて左手を選んだのだと気付いたのは、日和と別れて帰路に着いてからだ。
そのときにはもう何もかもが手遅れで、次の日に凪砂と日和は、行方知れずになってしまったのだけれど。
日和と凪砂が行方をくらませて二年経つ。
正確に言うと、巴家が日和の凪砂の居場所を教えてくれないだけで、世間的に警察沙汰になるような行方不明とはまた違った。巴家はふたりの所在を把握しているようだったし、ジュンと茨にそれを教えないのは恐らく本人たちの意向によるものだ。最初の数ヶ月は巴家に通って主に茨がだが交渉する日々を送り、そこで手に入れたほんのわずかな革新だった。
茨の情報収集力でもいまだに所在が分からないので、相当な力が働いているに違いないのだろう。しかしながらジュンにはいつ帰ってくるか分からない人間にいつまでも固執するわけにはいかなかった。芸能活動を続け、生き残るためには、活動休止したEdenのことを振り返る時間も余裕もなかった。
畳み掛けるような日々のなか必死にレッスンと仕事をこなしていたので、この二年の記憶がジュンにはほとんどない。いまはFM放送でピンのラジオ番組を貰ったり、テレビや舞台に脇役で呼んでもらったり、個人もしくは茨やだれかゲストを呼んでファンイベントもできており、ようやっと心身ともに落ち着いた日々を送れていた。Edenに比べたら細々とした活躍かも知れないが、ソロになった途端に消えていく同業者も少なくないなかで、ジュンはむしろ成功している方だと受け止めている。もちろんここで慢心したらあっという間に奈落の底まで叩き落されるのが芸能界で、驕ることなくまだまだ這い上がってやるという気持ちはいつもジュンのなかにある。
茨は実業家はもちろん、最近は後輩の育成にも力を入れており、プロデューサーなんかもやっている。ジュンが高三になったころにはコズミックプロダクションの代表にまで上り詰めたほどだ。業界内で耳に入ってくる茨がサポートしているユニットの評判はとてもよかった。
当時よりはぐっと減ったがいまだに元Edenしての絡みを期待される機会も多く、茨とはよく仕事が一緒になる。
今日は純喫茶にレポーターとして赴いた。昼のワイドショーで生放送だったのを途中すっかり忘れそうになるぐらい気が抜けてしまって、出てきたプリンを通販番組のように解説しながら食べている茨に一口くれ、と言わんばかりに口を開けて、譲りたくなくても茨が生放送でカメラが回っていると拒否できないのを利用して堪能させてもらった。プリンは硬めでほろ苦く、甘すぎないおいしさなのがよかった。マスターは誠実で、読書家な共通点もあり放送が終わったあともだいぶ話し込んだ。今度は個人的に伺ってみたいと話すと、快くぜひ、と返事をしてくれた。
今日の仕事はそのレポーターで最後だった。飲みに誘われましたが明日の準備があると丁重に断って帰路にたつ。
夕方のこの時間になると、十二月になりクリスマス一色となったこの街並みが、ジュンに二年前の出来事を思い出させる。
震える拳。……本当に、渡したかったもの。日和と自分の間を裂くように舞っていた、大粒の雪。
マンションの自動ドアを通って、エレベーターを待つ。ようやっとクリスマスの景色が消えてホッとする。あの時の自分の幼稚さを思い出してはジュンは羞恥心で死にたくなるのだ。ふたりが姿を消してからは、もっとうまく伝えられていたら違う未来もあったのかも知らないと、あるかどうかも分からない仮定をしては後悔の念に苛まれていた。
ほとんどが同業者──つまり芸能関係者が住んでいるこのマンションでは、通勤通学のラッシュなど関係なく、本来ならちょうど学生が帰宅するような時間帯でもエレベーターは空いていた。すぐに自分の部屋の階へたどり着いたジュンは、部屋の鍵を開けた先、身に覚えのないブーツにごとりと買ってきていたスーパーの袋を落とした。
まさか、そんな、でも。
脳内をぐるぐると接続詞、感嘆詞が駆け巡る。身体は、習慣なのかひっそりとリビングへと歩いていきながら。一人暮らし、実際はあとひとりは住めるようにと借りた1DKの部屋は、玄関から続く廊下の右にあるリビングと、あとは左奥にある部屋しか、行き場はない。あとは入ってすぐの左方に洗面所と風呂場があるけれど、そこはたったいま通った。誰もいない。
自分の家なのにまるで泥棒のようだと思いながら、そっとリビングへのドアを開く。……やはり誰もいなかったが、身に覚えのないコップがひとつ、ソファの前にあるテーブルに置かれていた。
心臓がうるさいくらいに脈を打つ。ひとつしかない答えに向かって足早に向かえば、焦りすぎて足がもつれそうになった。格好が悪すぎる。
会ったら話したいことがたくさんあったはずなのに、いざ会えそうになったら再開の言葉ひとつ思い浮かばない。一歩間違えれば傷つけてしまいそうで、口が悪い自分が恨めしい。
ジュンが寝室として使っている部屋。いるとしたらそこしかないはずのドアを開く。ぶわっと風が吹き荒れる。ひゅうひゅうと吹く風は網戸を超えて突き抜けてきていた。夕陽が窓の近くを照らし、その光が入らないベッドの上に、それはいた。
「……お、ひい、さん」
ほんの二年前までずっと隣にいたお姫さまは、こちらの気も知らずに、すうすうと寝息を立てて爆睡していた。
一度だけ、罪を犯したことがあった。
人によっては、そんなもの罪でもなんでもないただのヘタレだと笑い飛ばすかも知れない。けれど、ジュンにとってはあの日からずっと胸の裡にあり続けている、とても黒く滑った重石だった。
その日は珍しくオフの日曜日で、久しぶりにがっつり互いの部活動に参加しようと珍しく日和と別行動をとった。
部活のメンバーとシングルマッチで対戦した。僅差でなんとか勝利し、浮かれていた。どうせすぐ寮に帰ってシャワーを浴びることになるからと制服に着替えもせずに、テニスウェアのまま帰寮した。細かく日和に報告してやろうと、意気揚々と寮の部屋へ帰れば、メアリが寂しそうな鳴き声を漏らしながらジュンのもとへとやってくる。
ぐるぐるとジュンの周りを走るメアリに「どうしたんすかぁ」と呑気に声をかけながら、バッグをソファに置いた。
華道部は、日和をおいてほとんどが幽霊部員らしい。男子校のこの学園においてどうしても人気が出ない活動内容である上に、日和がいるのでとさらに避けられてしまい、まともに通っているのはごく数人と聞いた。ただ、顧問だけはしっかりとした経歴を持つ人を外部から読んでいた。もうだいぶ歳のお爺さんと日和は以前けらけらと笑いながら話していたが、饒舌に話すさまを見て、恐らく日和はその老人を気に入っているのだろうとジュンは推察した。実際に日和が好き嫌いを口にしたわけではない。ただの勘だった。
テーブルに置かれた作品は、白い花を真ん中に置いている、華美な印象を受けがちな日和にしては珍しく、質素な造りだった。もしかしたら日和が造ったのではないのか知れないと思いながら、夕飯の希望を聞こうと頭が見えるベッドを覗き込む。息が詰まった。
日和が、泣いていた。
いや、正確には、閉じたまぶたの目尻に、涙の粒が溜まっていた。少しでも角度を変えればほらりと頬を伝ってしまいそうで、ふるふると音もなく震えている。
考える前に体が動いていた。すっと日和の目尻に手を伸ばし、涙を掬う。ハッとなって、濡れた指先をじいっと見つめる。まだ体温を持った涙は、間違いなく日和から出たもので。嫌われた! と泣かれるのもそれに困るのもしょっちゅうで慣れているはずなのに、何故だかこの時はこれ以上この涙を見たくないと思った。日和は寝ているというのに、空気が、纏う湿度が、完全にいつもの涙とは違っていた。
少しだけちいさく、幼く見える日和は、毒でも盛られたのかよ、と言いたくなるぐらいに爆睡していて、一向に起きる気配がない。
「──おひいさん」
起きろ、起きないで。
起きろ、起きないで。
矛盾した願いが嵐のように脳内で駆け巡っている。ゆっくりと身を乗り出して日和の顔の隣に手を置いても、魔法でもかかったみたいにベッドは軋みもしない。まるでこれから始まることを、許してあげるとでも言わんばかりに。
顔を近づけてくちびるを重ねるだけ。それも一瞬だった。
離れても日和は変わらず眠りこけていた。ゆっくりと離れて、ふらふらと数メートル先のソファに倒れこむまで、ふつうに短距離走のレベルで距離があったぐらいに感じた。日和自前のソファは低反発でジュンの筋肉質なからだもしっかりと受け止める。
心臓がばくばくと鳴って飛び出しそうだ。さきほど触れただけの日和の感触を思い出しただけで、顔が熱くなる。
メアリとジュンだけしか知らない、罪の昼下がり。この時はっきりと、思いを自覚したのを覚えている。
行方知れずとなっていた当の本人はすやすやと呑気に寝息を立てている。網戸から入る風は冷たくふわふわとレースカーテンがしなやかに揺れていた。体が冷えてしまうかも知れないと音を立てずにゆっくりと窓を閉めた。
いや、なぜ不法侵入してきた相手に気を遣っているのか。寝ている間は起こさないでねという日和の言いつけを律儀に守っている自分に嫌気が差す。五年も前の話になるというのに。
ベッドの脇に座って、伸ばした手は触れるところまで届かない。呼吸の音も、動く胸元も、日和がここにいて生きていると証明しているのに嘘ではないのかと一抹の不安が過ぎる。なぜかは判らないが、いつからかずっと、隣に立っていたころから、日和が隣から消えてしまう焦燥感に苛まれていた。
いつか、こんなふうに日和が寝ていたときにキスをしたのを思い出した。泣いていたように見えた日和が、自分がふだん描いている日和と違いすぎて、戸惑って、結果、血迷った。
負けたユニットに嫌われてわんわん泣くのとは違う、他人の心臓を覗き見でもしたような気分になった。きっと、あの表情は、ジュンが見てはいけないものだった。少なくとも日和は、見せようとは思っていなかったはずだ。
あの時は罪だと思ったけれど、これは、いまキスをするのはそうではないんじゃないか。人の家のベッドを許可なしに占領しているのだ。とにかく寝顔を眺めているのは、正直、心臓に悪い。また何かしでかしてしまいそうで。
頭を冷やすためにリビングへ戻った。さすがに窓以外に出る手段はないからここにいればいずれ起きてくるだろう。冷蔵庫に入った五百ミリリットルのペットボトルをごくごくと勢いよく飲み干した。
相手が許可するかどうかも判らなかったのに、寝室は一つしかないしとリビングに用意したソファベッドは二年経っても捨てることなくそこにある。
横になって冷静に状況を整理していたらだんだん苛ついてきた。何も告げずに去っていって、どうして突然現れるんだろう。忘れたいと思うようなしんどい時もあって、でも忘れらるわけがなかったから、そっと宝箱に仕舞うようにして生きていこうと、決めかけていたところだった。
「ジュンくん。おはよう、この毛布かけてくれた? いいもの使ってるね。さすがはそこそこ売れっ子アイドルだね、ふふ」
空気も読まずにひょっこり現れた彼は二年前となんら変わらないように見えた。おはようなんて時間じゃないですよぉ、と返す。あ、そっか、と何か思いだしたようだった。
「まだ時差ボケしてるみたいだね。ジュンくんその水ぼくにもちょうだい?」
「……冷蔵庫から出すんでちょっと待ってください。ていうかあんたには山ほど聞きたいことが、」
「うんうん! あとシャワーも浴びたいしその後は軽いものが何か食べたいね! 明日午前中に荷物も届くだろうからあんまり夜更かしはできないんだけどねっ」
「は? ……荷物?」
「うん。ぼく、明日からここに住むから」
なにを言ってるんだこいつ、という顔をしたし、日和は「そういう意味で鍵を渡したんじゃないの?」という顔をしていた。
「もしかして家賃が必要? じゃあ」
ソファベッドが日和の体重で音もなく弾む。顎を寄せられてくちびるが触れるまで数秒もなかった。呆気にとられていると、これでいいよね、なんて声が耳元で囁かれる。
「さっきしなかったからぼくがしてたげたの。むしろ感謝してほしいぐらいだね! あ、ぼくがあがるまでに玄関に置いてたバッグからパジャマ一式出しておいてね」
言いたい放題言って、するりと離れて風呂場のほうへと向かっていく。追っていく言葉は見つからない。ぱたんとリビングのドアが閉まってから、ようやっと自分の部屋に帰ってきた感覚がした。重い息が漏れる。
何をしにきたんですか、あんた。
聞きたい言葉は結局聞けないままで。それでもくちびるから伝わった本物の体温は懐かしくて嬉しくもある。
程なくして風呂場から鼻歌が聞こえてきた。
今となっては懐かしい、Eveのデビューシングルの。
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