涙|十空
三ヶ日が過ぎてからようやく落ち着いた空却に十四は呼び出された。寺の仕事で年末年始は多忙だとだいぶ前から聞いていたし、十四も今年は同じ時期にライブが決まっており、年越しもバンドメンバーと共に過ごして一日ですらライブをしていた。その日のライブで行っていたツアーも千秋楽を迎え、二日はメンバーと初詣に行き打ち上げを行い、帰ってからは泥のように眠りについた。目が覚めたのは三日の昼過ぎで、完全にオフにすると決めていた予定のない日だったのでそのまま夕方までスマホを触りながらベッドの上で過ごした。
四日の深夜──空却にとっては朝になるのだろう──三時ごろにメッセージが届いていた。落ち着いたから暇なら来るか? と内容は端的だ。昼間寝過ぎた分、日付が変わる前に寝たものの眠りが浅く十四は着信音で寝覚めた。そしてそれが空却のメッセージだったものだから、必然めいたものを感じて嬉しくなってしまう。
『忘れてた』
返信するメッセージを打っている途中でチャットが更新されていく。
『あけおめ』
たまらず電話しようとしたけれど、やっぱり直接会ってきちんと新年の挨拶をしたい気持ちがあって、逸る気持ちをぐっと抑える。起きてるからすぐに向かってもいいですか、と訊ねると珍しく早起きじゃねえかと驚きとともに『んじゃ待ってる』と快諾のメッセージが続いた。
タクシーを呼び出そうとしたが、繁忙期なのか四件目でようやく繋がった。タクシーが訪れるのを待つ時間すら惜しく、走り出したくなるのを必死て我慢した。ひとに会いたくて抑えきれなくなりそう、だなんて生まれて初めてだ。こんな自分を、あの頃の自分が見たらどう思うだろうか。
タクシーから降りて門を抜け、階段の先に空却はいた。十四に気づくと、不適に口元を吊り上げた。人が来たときのためだろうか、薄暗く灯りはあるものの、掃除をするには心許ない。何故そこにいたのかは判らないが、どちらにしろずっとそこにいたのでは寒いだろう。十四は駆け足で上った。
「おー、早い早い」
「……っ、く、空却さん、あけまして、おめでとう、ございます。今年も、よろしく、お願いします!」
「おめでとう。今年もその息切れ具合じゃあ、がっつり修行してやんなきゃだな。よろしく」
「体力作り頑張るっす……。そんなことより、何してたんすか? 寒いから、早く中入りましょう?」
「……そーだな」
横目で視線を逸らすさまはらしくない。理由が思いつかなくて、十四は首を傾げながら、さっきまでタクシーの中でポケットに突っ込んでいた手で赤くなっている空却の耳を摘んだ。
「びゃッ」
「氷みたいに冷たい……」
「お前の手はやかんみてえに熱い」
「こんなところにいるからっす。何やってたんすか? 空却さんが風邪引いちゃったら、その原因に自分怒っちゃいそうっす」
「ンじゃあ、お前のせい」
「えっ」
「お前待ってた」
そう告げる吐く息は白く、触れた耳は冷たく。
ひとつ年上の自分よりもちいさな青年が見せる笑顔がかわいくて美しくて、こんなに綺麗にそのふたつを共存させられる人間、他にいるのだろうか。
部屋に入って早急に布団の上で押し倒してキスをしたら、童貞かよとくつくつと笑われる。全く僧侶らしくない下品な言動もしばしばあるが、触れ合う時はむしろ僧侶としての側面が表面に出てくるように感じた。抱きしめているとより強く香る白檀のかおりのせいかも知れない。静謐で、厳かな、僧侶としてある空劫が与えられる快楽に甘く酔わされるのを見れるのは、十四だけの特権だった。
「ん……ぅ」
そんなに大きくないくちを好きなだけ蹂躙してから、とにかくゆっくりと進めていく。待たされるのが嫌いってことは、待たされるのに弱いということだ。ちゃんと実際に嫌われない程度にはしているつもりだし、いつもとろりと目を蜂蜜みたいにさせている空却を見る限りは、不満なんてまったくなさそうに思えるのだけれど。
「……早くな」
短く、空劫が言う。説法もどきを説く空却の話は基本的に長いのだが、さすがにそんな余裕はこの状況ではないようだった。
「空却さんが、そう言うなら」
もっと気持ちよくなれるのが、最優先です。とは言わなかった。
楽しかったな、と一日を振り返る。
一度だけだけどゆっくりと時間をかけて空却と分かち合って、朝風呂にふたりで入り、雑巾掛けなどの修行を済ませたあと雑煮をいただきた。空却の家で毎年食べているらしく、十四の家とは違う味がした。部屋でテレビを見る傍ら、スマホで面白い動画を探して見せあったり。シルバーアクセサリーの通販サイトを開いて、初売りになっているのを衝動買いしたり。また父親に呼び出されて中庭の掃除をしたり、中にはキツい仕事もあったが、充実していた。
明日の昼からバンドの打ちあわせが入っているから夜には帰るつもりだったが、泊まって行け、と空却に誘われて素直に甘えることにした。市内の中心部にある空却の寺は、ほとんどの場合で十四の家よりバンドが集まる市内のカフェに近い。それも日々共に過ごしていくなかで、空却に知られて、以降気を遣われていた。
夕ご飯を食べて風呂にも入り、空却が用意してくれた寝巻を着て彼の部屋に向かえば、当たり前のように布団がふたつ並べられていて思わず微笑んでしまう。だいぶ馴染んでしまった。この生活に。
でもそれが、こんなにも。
「悪い、親父に呼ばれてたわ」
十四が風呂に入っているあいだ、部屋で待っていると告げていたのを謝っているのだろう。全然、と首を振った。
「……僕、いま、とっても充実した正月を過ごせているんです」
隣同士と布団に入って、しばらく談笑していた。ぽつりと出てきたのは、ずっと今日頭のどこかで考えていたことだった。
「すごく、楽しくて。でも……いま、いつかの自分みたいに、しんどくて、ひとりで、心細いひとも……きっとたくさんいて、」
数年前の自分は、たぶんこの季節が正月だってことすら気づかないまま過ごしていた。年中の行事を楽しむよりも、生き抜くことで精一杯だった。
「そう思ったら、すごく幸せなのに、なんか」
じわりと視界が滲む。泣いちゃだめなのに、と思えば思うほど溢れてくる。このままじゃ溢れかえってしまう。
忘れたくない、と思うのだ。自分でも空却の修行のおかげで強くなれていると自負しているが、始まりの、弱くて泣き虫だったころを忘れたくないし、なかったことにしたくない。あの暗くて冷たい時期がなければ、空却に気に入ってもらえた不退転の心はきっと持っていなかった。とんでもない皮肉だ。でもはっきりと、彼に出会えてよかったと思えるから。
布擦れの音が隣から聞こえて、ふっと気配が消えた。滲む視界の先に赤を捉えたのと腹部にかかる重量に、上に乗られているのだと気づく。
ぺろっと舐められたのは網膜の上にある大粒だ。掬いとるように舐めあげられて、視界が一気にクリアになる。見下ろしてくる空却の目に弱い自分が映っていた。
「泣くなって毎回言ってンだろ」
「だ、だって……」
「だっても何もねえ。泣くな。けど、いまの気持ちは忘れるな。絶対になくすなよ。どんだけ強くなっても、強くなれなかったり逃げてしまうやつらを、ひとりで泣いてるかも知らないやつのことを。不退転の心を、ずっと持ってろ」
「……空却さんの言ってること、いつも難しいっす……」
「涙は駄目だが、いまのは嫌いじゃねえっつったんだ」
つうと鎖骨をなぞり寝巻の掛け襟を整えてからするっと布団へ潜り込む。十四の隣へ。
「変わったなあ、お前」
ヒャハと独特の笑い声で自慢げに笑う空却だって、変わったなと思う。無邪気で、人間らしくて、そんな笑顔はいままで見せなかった。空却を近くに感じて十四はホッとする。十四から何かしら、与えられたものがあればいいのだけれど。
すこし遅くなった夜に、すでに目をうつろうつろとさせている空却を眺めているだけで胸があたたかくなる。おやすみなさい、とちいさく呟けば、んー、と半分眠りに落ちた、機嫌のよさそうなな声が返ってきたのだった。
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